覚書(世界に一つだけの花)

多様性がある方がいい。という風潮によく、SMAPの世界に一つだけの花の「No1にならなくてもいい。元々特別なOnly One」というが出てくる。

そこに対して、ちょっとハッとすることを見かけたので覚書。

世界に一つだけの花が歌われているのは、冒頭の歌詞の通り「花屋の店先」であること。すなわち、世界に一つだけの花がNo1とかを比べなくてもいい云々しているのは、決して、なんでもかんでもという話ではないよ。ということ。

花屋の店先に並ぶことのできる花ということなので、そもそも売り物になるレベルをすでに足切りされた世界の中の話。を歌っており、その辺の雑草も含んだ話ではない。

これを見たとき、あの歌を聴いていい曲だと思う(肯定されたと感じる)層には残酷な話だと思った。

こういう見えにくいフィルターは、どこにでもあるなと感じる。例えば一緒に仕事をする人も、採用というフィルターを通しているし、たまたま会った人でさえ、日本という国や生活領域というフィルターがある。

子供でいえば、学校、習い事、友達、ほぼすべてがフィルターが通った世界。

「個性」、「ありのまま」、「多様性」、聞こえのいい言葉で見えにくいようにしているけれど、それらは社会に認められるレベルであることが前提であり、それはずっと見えにくいけれどもついてまわる。

私は子供が3人いて、家で教える/教えておくべきことをよく考えるようになった。

この子の個性だから。と思うことはあるけれども、社会に入れる最低限や、社会に認めてもらえる準備を協力してあげることは、親として必要だな。と感じさせられてハッとした。

店先に並べてもらえないのに、おれはOnly Oneなんだからと店先でクレームをいれるような側にならないように。

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